2/13日に迎賓館赤坂離宮で開催された「明治150年特別参観」に抽選で当たったので見学してきました。
この日は普段一般公開されていない部屋で東京工業大学特任准教授の平賀あまな先生が約1時間にわたって講演を聞かせてくれました。
前回は迎賓館赤坂離宮の歴史と建築について自分なりにまとめてみました。
【天井絵画修復中で入れなかった朝日の間】
今回は赤坂離宮の秘密と題しまして講演で聞いた内容を中心に書いてみたいと思います。
もともと赤坂離宮は1909年に大正天皇の東宮御所として建てられたのですが、実際には大正天皇が使われたことはほとんどなく、1923年に昭和天皇が皇太子の時代に5年ほどお過ごしになったり1945年11月から今上陛下が6か月間過ごしたという程度で戦後には国の管轄となったため建てられた当時の様子は公開書類などが少なく謎が多かったのです。
ところが2011年に法律が改正されたことによって、それまで公になっていなかった皇室関係の書類が簡単に見れるようになったようです。
その後、平賀あまな先生が迎賓館上席政策調査員として迎賓館赤坂離宮の設計過程や戦前の利用について調査研究をしてきた結果、たくさんの事実が浮かび上がってきました。
それをいくつかピックアップしていたいと思います。
※以下の内容はまだまだ一般には知られていない内容だと思います。
しかし一つだけ先に断っておくと、未だ手付かずの資料がたくさんあるそうで、今後の調査次第では見解が変わる可能性もあります。
あくまでも2018.2月現在の調査報告内容だと思って読んでください。
【食堂として使われる花鳥の間】
・最も貴重な資料は領収書
平賀あまな先生の研究の中で特に役に立ったのは領収書だそうです。
この赤坂離宮の建築に関わる領収書の宛名や日付、金額、それから署名者などを調べることによって、どの工事が誰の依頼で、いつ頃、どこの国のなんという会社に、いくらで発注されたのかが分かるからです。
平賀あまな先生は「毎日毎日、まるで税務調査をしているようでした。」
と語っていらっしゃいましたが。
【唯一イスラム様式の装飾が施された東の間】
・デザインはミニチュアとして輸入。
当時まだまだ西洋建築についての知識や経験の乏しい日本で本格的なネオ・バロック様式の宮殿建築を建てるわけですから、当然日本人だけの力では作れません。ちなみに建築家という職業自体が明治以前の日本には存在せず、それはもっぱら大工の棟梁が担当していたようです。
そんなわけでヨーロッパの装飾のデザインは日本でできるわけもなく
フランスなどから買っていたわけですが、それも領収書や絵図面を調べたら、完成品を買うのではなくミニチュアの形で輸入したものを日本の職人や絵描きで完成させたものが多かったようです。
公開されたもともとの図面を見ることで、デザインを輸入した当初はなかったものが加えられているものも確認されました。
【霊鳥のデザインから命名された彩鸞の間】
・謎の洋画家、黒田清輝
赤坂離宮の建築、室内装飾の調査などに関わった人物に黒田清輝(せいき)という人がいます。
黒田清輝は当時美術・工芸家にとって最高の名誉である「帝室技芸員」に洋画家として初めて選ばれた人ですが、実際には赤坂離宮の装飾にどのように係わったか全くわかっておらず、実は名前だけで実際にはかかわっていなかったのではないかとも言われていたようです。
ところがこれも平賀先生の税務調査?のおかげで外国からの仕入れの中に達筆なアルファベットで「Seiki Kuroda」という署名が発見され、やはり装飾の部分で関わっていたことが明らかになりました。今後、文書を調査していくともっとはっきりしたことがわかってくるのではないかということです。
【暖炉としてではなく飾りとして使われたマントルピース】
・片山東熊について
片山東熊は赤坂離宮を設計し、建設の総指揮をとった人物です。
離宮建設に予算を使いすぎたことで完成後に明治天皇から「贅沢すぎる」とお叱りを受けて体調を崩したような逸話もありますが、平賀先生の調べによるとどう考えてもお叱りも想定済みの確信犯ではないかということです。
また、建物正面の左右の屋根の上に甲冑のモチーフが飾られています。
これはもともとヨーロッパの騎士のデザインだったものが和風に変更されたものですが、一説では片山は騎士のデザインにしたかったにも係わらず、最終的に甲冑にせざるおえなくなった、と言われていたそうです。
ところが片山が書いた初期の図面案にはすでに甲冑が描かれていることがわかり、むしろ片山が甲冑にこだわったのではないかということだそうです。
【中央階段ホール。赤坂離宮は正面から入るとすぐこの豪華な階段を登って2Fに上がるように設計されており、この設計は片山のアイデアであったようだ】
・秘密のコンサート
2Fには舞踏室として設計され、オーケストラボックスもある「羽衣の間」と呼ばれる部屋があります。
赤坂離宮は当初大正天皇の居所として使われる予定だったが明治天皇のお叱りもあって大正天皇はほとんど使われることはなかったと言われています。
しかし、もともと大正天皇はヨーロッパ文化に憧れが強かったそうで、離宮建築中もたびたび現場を視察に来ては長時間過ごすなど、大変竣工を心待ちにしていた様子が浮かび上がってきました。
さらに平賀先生の調査によって発見された文書によって、公式にも記録が残っておらず誰も知らなかったプライベートなオーケストラコンサートが開催されたことがあった、という事実が発見されました。
もしかしたら、ここで大正天皇はダンスを踊ったのかも知れませんと先生はおっしゃっていました。
【羽衣の間。下の写真の2F席のような部分がオーケストラボックス】
極東の地に突如現れたバロック宮殿で皇太子たちがひそかにおこなった秘密の舞踏会なんて、ロマンチックですね。
東京に出かけたら繁華街もいいですが、赤坂離宮にもぜひ足を運んでみてくださいね。
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